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名馬の行く先

2021/05/21





―サラブレッドの“セカンドライフ”を創出したい。―

2021年2月に日本中央競馬会(JRA)を引退した角居勝彦氏。調教師時代は、ウオッカやヴィクトワールピサなどの名馬をダービーに送り出し、毎年のようにビッグタイトルを手にしてきた。
そんな彼が代表理事を務める、引退馬支援プロジェクト「ホースコミュニティ」をご存じだろうか?
馬は人を乗せられなくなったら終わりではない。どんな馬であっても、馬という生きものが生き続ける限り、私たちにすばらしい価値を与え続けてくれる。“経済動物”である馬の命をつむぎ、馬と馬、馬と人、そして、人と人の縁をつないでいく―。長年、馬とともに歩んできたからこそ成しえる、角居氏の取り組みに焦点を当ててみた。

人と馬、自然が共生していた街・珠洲。

走るために生まれ、レースに勝つために厳しいトレーニングを課せられるサラブレッドたち。一見華やかなイメージを持たれがちだが、悲しいかな競馬というスポーツは優勝劣敗の世界。強く、速く走るもののみが脚光を浴び、走らざるものは淘汰されるという残酷な結末が待ち受けている。
「馬が勝てないのは調教する側にも責任がある。たとえ血統のいい馬を任されても、毎レース勝てるわけではないし、事故やケガなどで引退を余儀なくされることもある。毎年5000頭もの競走馬が引退し、全国の乗馬クラブへと渡っていくが、そのうちの多くの命が失われる……。そんな厳しい現実と向き合うのが、馬に携わるものとして心苦しかった。引退した馬たちに“第二の馬生”を送らせたい。何か助ける方法があるのではないか……という思いから立ち上げたのが、引退馬支援のプラットフォーム「ホースコミュニティ」だ」。
角居氏が“引退馬のふるさと”として選んだのは、石川県珠洲市。ここには、2008年日刊スポーツ賞シンザン記念勝ち馬・ドリームシグナルがすでに暮らしている。珠洲は彼の地元。里山・里海に囲まれた自然が豊かな土地であると同時に、実は、馬と結びつきが強い街でもある。
「珠洲の街を歩いていると、馬渡(まわたり)、馬緤(まつなぎ)など、馬が由来の地名があちこちにあることに気付く。それは、いにしえの時代に「能登馬」という品種の馬が生産されていたからだ。ところが明治時代に入り、侵略戦争へと突き進むと、政府は小型馬の生産・育成を禁止し、一時は絶滅寸前にまでいたった。それを助けるために、馬の愛好家たちは北海道や離島に小型馬を隠したという。そんな歴史背景のある珠洲だからこそ、人と馬が一緒に暮らす地域社会がイマジネーションできた」。

馬と触れ合うだけで癒しになる。

馬は、本来群れで暮らす生きもの。人に対して順応で、すべてを包み込むようなおおらかな性格をしており、たくさんの仲間たちとともに穏やかな時間を過ごす。競走馬のイメージとは180度異なるかもしれないが、これが馬本来の性質だ。
この特性を生かして、馬に乗ったり触れ合ったり、エサやりをしたりすることで、心理的・身体的な癒しを味わうのが「ホースセラピー」の醍醐味。「ホースセラピー」という言葉が浸透し出したのはつい最近のことだが、その歴史は古く、紀元前5世紀・古代ギリシャまでさかのぼる。当時から乗馬のリズムが体に好影響をもたらすと、戦争で傷ついた兵士たちのリハビリに用いられていたそうだ。
その後、20世紀になって本格的に普及され、ヨーロッパや東南アジア諸国では犯罪者の更生、障害を持った子供たちの精神安定、不登校や引きこもりの改善などに応用されている。かく言う角居氏も、調教師の時代から、馬の“速く走る”“高く飛ぶ”以外のポテンシャルに気付いていた。
「馬はドレッサージュといってダンスのような動きもできるし、触れるとじんわり温かい体温が感じられ、それだけでもリラックス効果がもたらされる。私が注目している“乗らないホースセラピー”は、馬と触れ合う中で心身両面を健やかにしていくもの。競走馬みたいに高い身体力は求められないし、性格がおとなしければおとなしいほど優秀であることから、高齢馬の新しい居場所として向いている。馬と触れ合う、ブラシをかける、お散歩をする……と、そんな対話の中で心の交流が生まれ、癒しにつながり、気づきが芽生えたら、私たち人間は悩みから解き放たれるはずだ」。

“乗る”以外で実現される人馬一体。

プロジェクトの核になるのが、引退馬を“生まれ変わらせる”リトレーニング。競馬の調教師は、レースで勝つために調教をして馬を仕上げるのが仕事。対してリトレーニングでは、馬をおとなしくさせたり、元々持っているやさしさ、思いやりを引き出したりと、真逆の能力が求められる。
「競馬はスピードが命。速く走れるように教え込まれた馬たちは、最初は人とのんびり散歩することすら受け入れられない。感覚がつかめずにあらぶったり、勝手に走り出したりする馬もいるほどだ。また、歯が悪くなって飼い葉をちゃんと食べられないとか、足腰が弱って人を乗せるのが難しいとか、精神的・身体的なトラブルを抱えている馬も多い。だから、それぞれの馬の気質や体調に合わせたプログラムを組み、約半年間をかけてリトレーニングを行う」。
リトレーニングで大事なのは、馬の気持ちになって携わること。物言わぬ馬だからこそ、「馬は今、どんな気持ちでいるのだろう」「お腹がすいてたり、疲れたりはしていないか」「馬の嫌がることはしていないか」と観察力や想像力を働かせながらケアをしていく。そしてそれは、リトレーニング後の馬と触れ合う人にも育んでほしい能力でもある。
「馬たちと触れ合う中で、“他者を思いやる心”と“自身の心を開く力”が培えるから、人間社会でのコミュニケーションにそのまま役立てることができる。これは療育プログラムになるし、リハビリや社員研修にも応用することができる。ケガや病気、老いなどで人を乗せられなくなった馬たちに、“人を乗せる”以外の希望を見出せたら、彼らの生きるモチベーションにもつながると思う」。

馬だけでなく、人にも幸せを。

馬のリトレーニングをはじめ、引退馬支援には人材の育成が急務だが、ボランティア精神がなければ施設が成り立っていかないというのが、今の日本の現状。
「大事なのは、馬が活躍することで収入を得る仕組みを作ること。競馬界だけでなく、行政や異業種、競馬・乗馬と縁のない層の方たちにも賛同してもらって、馬の活躍する場やそれに携わる人を増やしていく必要がある。今後は、ホースセラピー馬を育てていく過程を課金制ライブ配信するオンラインサロンにも着手したい。乗馬やセラピー馬を育てるのにファンの方が支えてくださるというモデルが完成したら、引退馬を取り巻く現状が大きく改善されると思う」。
珠洲を盛り上げることも角居氏の大きなミッションだ。現在、珠洲市の人口は約13000人で、そのうち15歳以下は約1000人。街の宝でもある子供たちに“馬がいる付加価値”を実感してもらうことが、過疎化の回避に一石を投じることになる。
「珠洲の街をドリームシグナルと一緒に散歩していると、街の人が立ち止まって写真を撮ったり、声をかけてくださったりする。馬が一頭加わるだけで、人と人の触れ合いが生まれるのだと再実感している。障害のある人、精神的に生きにくさを感じている人は、どの地域にもたくさんいらっしゃる。地域の中に動物がいることで、自然とコミュニケーションが生まれ、癒され、たくさんの交流の機会が生まれたらすばらしいことだ。今後は馬の活動を通して、福祉や教育、医療などさまざまな職種とコミットさせながら、地域の人たちに新しい価値を提供していきたい」。
引退馬の活路を見出すために始めたプロジェクトは今、馬だけでなく人の心にもやさしい光を灯している。